かつて市川孝典は語った。
「僕が作品で描くのは、なんでもない日常のいち場面です。14〜15歳の頃、友達と連れ立って行った森。そこに何があったわけでもない。でも、特別ではないその日常こそを今でも鮮明に覚えている。僕にとって大切な記憶なんです」
前もって知らされていなければ、この写実的な絵画が一切の下書きなし、資料となる写真もなし、脳裏の記憶だけを頼りに描かれたものであると、いったい誰が思うだろう。複雑に入り組んだ樹木の枝、覆い被さった葉と蔦、石階段の細やかな肌の凹凸。だが驚くべきはその緻密さだけではない。描くのに用いられた画材、それは鉛筆やペンなどではなく、線香、なのである。
指の先に灯したほんのわずかな炎で丹念に和紙を焼いていく。サイズや燃焼の仕方によって様々な種類の線香を使い分け、焦げ痕の濃淡、焼け落ちた穴の形状を組み合わせ、陰影を作り出す。炙る、焼く、焦がす、穴を空ける。それは紙というのは物質の変化であり、元には戻らない。けして小さくはない大きさのひと作品をつくりあげるまで、一点たりとも失敗は許されない。
間近で観ると、その痕のひとつひとつの造形自体が美しい。ミクロの視点の圧倒的な積み重ね。完成した作品を画面から距離を置いた視点から観ると、作業を施さなかった無地のスペースが光となり、像を結ぶ。デモーニッシュな魅力を封じ込めた一枚の絵画がそこにある。
3年ぶりに行われている今回の個展、伺ってみると以前にはなかった新しい試みがあった。
前述のように大変な労力を持って作り上げた作品が大胆にカットしてあったのだ。
大作として個展の目玉にもなったであろう一枚の大きな森は切り裂かれ、そのいくつかのパーツ群が五つのフレームに分割して収められている。
かつて自らの大切なものと語った「日常」を切り離した空間には、よりくっきりとした光と闇が生まれていた。
それは欠如か、忘却か。
これらの作品で彼は何を投げかけているのか。
閉廊間際に駆け込んだ会場で、ひとり静寂の森に引き込まれたようだった。
個展タイトルは『grace note』。
ざわめきが聴こえた。かすかにだが、しかし重要な何か。
もう一度、あの森に足を運ぶことになるだろう。
市川 孝典 個展『grace note』
期間:2017年1月13日(金)〜2017年2月3日(金)
場所:ES gallery 〒150-0002 東京都渋谷区渋谷2-7-4 elephant STUDIO 2F
Tel 080-4717-0611
http://esgallery.tokyo/
www.ichikawakosuke.com