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ア・テイスト・オブ・ブラッド -A Taste Of Blood-

 

 


深夜の車道の真ん中に黒い犬の死体が転がっていて、何台もの車がその上を通り過ぎていった。飛び出た眼球、ちぎれた舌、つぶれた胴から飛び出した濁った赤と緑の内臓。それらは強烈なヘッドライトによって姿を現し、そして、また闇に消えた。

 

 


車道沿いに立つ8階建てのビルの1室、明かりの消えた暗い部屋。

開け放った窓の枠にもたれかかった男が、アスファルトの上で次第にすり減っていく肉のかたまりを見下ろしている。

上半身は裸、氷河のような青白い肌に、浮き出たあばら。はだしの左足を窓の外にぶらつかせ、洗濯で色の落ちきったデニムは前のボタンが全部外れていて、へそからつながった陰毛が夜の風になびいている。

赤く腫れたまぶた、青みがかったシルバーグレイの瞳、寝グセで跳ね上がった墨色の髪、こけた頬に無精髭をはり付け、薄い口唇の端に火のない煙草。

 

 

 

男の体ごしに見える部屋の奥にはアップライトのピアノがほこりをかぶっていて、その上に置いてあるアンテナの曲がった古いラジオが、身悶えんばかりのアルト・サックスの音を響かせ、それと重なるように、車が犬の躯に乗り上げる音が、リズミカルに、しかし、ビルの反響で遅れて届いている。

 

 


ふいに部屋の奥で扉が開いて、強い光のナイフが室内の青い闇を切り取った。その角度の中にあった男は、わずかに目を細める。
狭まった視界に入ってきたのは、地上でもっとも美しい曲線である女の脚。熟れきった果実のような匂いとともにバスルームの湯気をまとい、厚手のタオルで濡れた髪と体を包んだ白い肌の美女。彼女は今にも唾を吐きそうな表情で言った。

 

 

 

「ああ、もう、やっと帰ったわ。毎回毎回、あの男、しつこいったら。まあ、それでも金離れのいい客だから、ネズミみたいな息のにおいだって我慢するけど」
自分を買った客を嘲笑する下卑た表情のなかにも、彼女はある種の澄んだ美しさを漂わせる。深い湖の底をのぞいたようなグリーンの瞳。雪山の頂を思わせる高い鼻梁。ただ、パパイヤのような肉感たっぷりの口唇を押し開くと二本の前歯の間にすき間があって、それは成熟した大人の女に残された唯一の幼さだった。

 

 


女は男の口から煙草を取り上げて、それをくわえた。
「どうしたの? 夜にしては音が大きすぎるわ。窓も開けたままじゃない」
女がラジオのツマミに手を伸ばそうとすると、男はその細い手首をつかんで、ぐいと引き寄せ、あげかけた声を口唇でふさいだ。床に転がる煙草。

 

 

 

頭に巻いたタオルが解け、女の濡れた髪が顔の半分と細い首から背中までを滑り降りた。

男の荒々しい求め方に、仕方なく応えていた女だったが、男の手がバスタオルの裾をめくり、まだ乾ききっていない股間に触れようとすると、男の体を、どん、と突き離した。

 

 


「やめてよ」
女はタオルの裾を押さえながら、後ろ歩きで距離を取った。男はそれと歩幅を合わせるように、ゆっくりとまた女に近づいた。まるで覚えたてのステップを確かめるビギナーのように。
女の背中が壁に触れた。男は女の目を見つめながら、その腰をやさしく抱き寄せた。
耳元で男が囁く。
「よかったか」
女は身を固くする。男は両手で女の腰をがっしりと抱え込む。
「しつこくされて、よかったのか」

 

 


女は、何を言ってるの、と言いたげに、グリーンの目をぐるりと回す。

「いいえ。何も感じなかったわ。私は何も感じない。そんなこと、あなただってよく知っているでしょう?」
男の手が尻の肉を激しく掴んだ。そしてその奥の粘膜に、ざらついた指を這わす。女は裂けるような痛みを感じて身をよじった。
「い、いたい……」
「なあ、カミラ。明日は火曜日だ。そうだ、パンケーキを食べなきゃな」
「聴いてよ、チコ。私、ついさっきまで仕事してたの。そう、別の男のを何時間もくわえこんでたの。悪いけどそんな気になれないわ」
「バターをたっぷり、それに新鮮なブルーベリーとバナナも添えて」
男の指が女の谷間を強引に開こうとする。
「ちょっと! あんた、やっぱりイカレてるわ! 自分の女を売っといて、そのすぐ後に自分もファックしようっていうの!」

 

 


女は息を飲んだ。

女の裂け目に何かがはさまっていた。冷たい感触。ごく薄い何か。

刃物?

耳元にガサついた口唇をあて、男が言う。
「うるさいよ、ビッチ。俺が欲しいのか、欲しくないのか、どっちなんだ」
股間の異物がわずかに動いた。チクリとした痛み。粘膜に貼り付いた暴発寸前の狂気。

女はあきらめ、体の力を抜いた。

 

 


アルト・サックスの絶叫は続く。弾け飛ぶ犬の頭蓋骨。
「飲み物はさ、あたためたミルクに蜂蜜をいれてさ」
男の痩せた肩越し、女は壁に刺さったナイフの刃を眺め続けた。

 

(未完)

 

 

 

 

 

Thanks For Inspiration : JOE HENRY 『Scar』(2001)

 

 

 

 

 

| ショート・ストーリーズ | 01:23 | - | - | pookmark |
我らをゆるしたまえ -Forgive Us-

 

 

 


(1)

 

その日は土曜日だったが、マキシンはこれがニックと過ごす最後の週末になるだろうと思っていた。
二人ともこれからのことを思うと気が滅入るのだが、やけっぱちになっているニックと違い、どちらかというと楽観主義であるマキシンは、差し当たってこの後どうしようかと考えを巡らせていた。

 

 


「そうだわ、ニック。天気もいいことだし、車を借りて海まで行ってみない? ほら、今年になってまだ行ってなかったでしょう?」
マキシンがキッチンから声をかけたとき、ニックは洗面台で手を洗っていた。皮膚が赤みを帯びるまで、何度も何度も石けんでこすっていた。
「なに言ってるんだよ。今、そんな場合じゃないだろ」

「だって、どっちにしろ、もうここにはいられないじゃない。どうせだったら気分がいいところへ行きたいわ。そうだ、ロード・アイランドはどう? 毎年、ニューポートでジャズ・フェスティバルをやってるはずよ。今年はサッチモが出るとかラジオで言ってたわ」
「サッチモ? ルイ・アームストロング?」
洗面所からニックが顔をのぞかせた。

 

 


「そう、ルイ・アームストロング。好きでしょ、ニック」
「好きだね」
タオルで手を拭きながら、ニックがキッチンに来た。
「観たいでしょ」
「観たい」
「決まりね」
マキシンが笑った。ニックも笑った。

 

 


「じゃあ、俺はおばさんにフォードのカギを借りてくるから、持っていく着替えを二階のクローゼットでみつくろっておいてくれよ」
「フォードじゃなくて、キャディにしなさいよ。あのお尻の大きな黄色のキャデラック、すてきだわ」
「おいおい、貸してくれないよ。おじさんが新車で買ったばかりなんだぜ。まあ、訊くだけ訊いてみるか。そうだ。よかったらついでに旅行用のトランクをひとつ出しといてくれ」

 

 


玄関の扉が閉まる音がすると、マキシンはテーブルに置いてあったタバコを口にくわえた。

マッチを擦って火を点けようとしたが、手が震えていてうまく点けられなかった。
着替えと、トランク。

そうね、トランクは確かに必要だわ。
マキシンは階段をのぼって寝室に入り、クローゼットの扉を開いた。

 

 

 

 

 

 

(2)

 

二人はキャデラックの屋根をオープンにして、島へ向かう海上道路を走った。

空の青と、海の蒼の境目。走る風が照りつける太陽の熱を心地よく冷ましてくれた。
白地に赤いドット柄のワンピースを着たマキシンが、助手席で帽子のつばを押さえながら言った。
「ニック、ソーダがあるわよ。飲む?」
スポーツシャツの袖をまくり上げ、深いグリーンのサングラスをかけたニック。
「いや、ビールがいいな。開けてくれるかい?」
ニックがラジオのつまみを回すと、陽気なブラスのフレーズが流れ出した。ペレス・プラード楽団の最新ヒット「パトリシア」だ。
「見て、吊り橋よ。あんなところを通るのね。船が下をくぐっていくわ。すごい」

 

 


海上道路の終わりが近づき、港が見えてきた。ひしめくようにヨットが並び、その白い帆が心躍る夏の日差しを反射させていた。
「ほら、あそこの船から子供が手を振ってるわ。なんてかわいい坊やなの」
ボードに書かれたウェルカムという文字を横目に、トールロードを抜けて上陸、幹線に合流し、いかにもリゾート地らしい豪邸が建ち並ぶ大通りをぬけて、さっき海から見たハーバーを目指す。
「見て、あの標識。フェアウェル・ストリートですって。おっかしいわ! 今、来たばかりなのに “さよなら” だなんてね」

 

 


風にゆれるヨットたちを見つけ、ハーバーを利用する客用の駐車場に、黄色いキャデラックを停めた。
ニックが車から身を乗り出し、ヨットからロープを下ろしている頭髪の薄い男にむかって声をかけた。
「やあ。いい天気だね」

 

 


声に気がついた男が顔をあげて応える。真っ赤に焼けた頭皮の上で、わずかに残った白い髪がゆれた。
「まったくだ。ヨット日和とは、こういう日のことをいうのだな。何か用かね?」
「今、着いたばかりなんだ。いいホテルを知らないか? フェスティバルの会場に近いといいんだが」
「ふむ、会場はベルコート・キャッスルってところなんだが、ここを引き返して右へ曲がると、ベルヴィル・ストリートへ出るから、そこを道なりに行けばすぐ見つかる。ただ、会場の近くはどこも多いだろうから、逆に、会場とは反対方向の宿を探したほうがいいだろうな。まあ、もっと詳しく教えてやれたらいいんだが、私たちはあいにくホテルではなくて、サマーハウスで過ごしているものでね」
「こりゃどうも、ご親切に」
それを聞き終わるか終わらないかのうちに、ニックがまたエンジンをかけた。
マキシンが口をはさんだ。
「お礼にあなた、ソーダなんていかが?」
「結構だ。ありがとう。よい一日を」

 

 


ハーバーの男の言ったとおり、会場付近の宿は満室を理由に断られた。知らない道を車でうろつき回り、古ぼけた小さな宿にやっとチェックインできた。

隣接のレストランでの遅い昼食をとり、デザートのライチ・シャーベットですっかり上機嫌になった二人。
それから腹ごなしに通りを探索した。ビーチは思ったより遠かったので、海が見える前に引き返した。

 

 

 

部屋に戻った二人は抱き合ってセックスをした。
バスルームから出てきたばかりの頬を赤くしたマキシンが、そろそろ会場へ行こうと誘ったが、ベッドの上のニックは運転で疲れたと言い、そう言えば二人とも前日は一睡もしていなかったので、そのまま夕方までひと眠りすることになった。
「急ぐことはないだろう。サッチモの出番はもっと遅いはずだ」

 

 


ニックが目を覚ますと、夕方どころか、窓の外は真っ暗な闇に塗りつぶされていた。
起き抜けに、ニックがマキシンに怒鳴った。
「どうして起こさないんだ!」

 

 


濃いブルーのインナー姿でベッドに腰掛け、雑誌を眺めていたマキシンの眉が吊り上がった。
「起こしたわよ。何度も声をかけたけど起きなかったの! 悪いのは自分じゃない。どうして私が怒られるのよ!」
舌うちするニック。
「いいか。相手が起きないんだったら、起こしたとは言わない。起こす約束をしたときは、相手が起きるまで、揺すってでも、叩いてでも起こすんだ!」

 

 

 

「知らないわよ、そんなの! 私だって、ほんとは出かけたかったわよ! でも、あなたすごく疲れてるみたいだったから、がまんして寝かせておいてあげたのに! あなたの奥さんだったら、こういうときどうしてたの? やさしく起こしてくれたの? ママが子供を起こすときみたいに? さあ、ベイビー、もう朝でちゅよ。おっきしまちょうね。かわいい、かわいい、私のベイビー!」
ニックが拳を振り上げた。
マキシンは動じず、ニックを見据えた。
置き時計の針の音に混じって、雨粒が窓ガラスをなでる音が聞こえた。

 

 

 

ニックの腕がだらりと下がった。

うつむいた細い顔に、照明が濃いオレンジ色の影をつける。
「……あいつのことは言うな」
マキシンはベッドから飛び降りると、電気スタンドをつかんで床に叩きつけた。

 

 

 

 

 

 

(3)


1958年のニューポート・ジャズ・フェスティバル。
夜は深まり、すでに日付は日曜に変わっていた。

会場は途中から降り出した雨のなか、興奮しきった観客たちが一心にステージを見つめていた。

 

 


出演者中、最後に登場したゴスペルの女王、マヘリア・ジャクソンは、たったのひと声を発しただけで、すべての人々の心をつかんだ。母性の固まりのようなふくよかな体で、ステップを踏み、手を打ち鳴らし、その迷いのないまっすぐな声で、神への感謝を魂のかぎり歌い上げるマヘリア。

 

 


「ゴスペルソングは希望の歌です。人はゴスペルを歌うことで、苦しみや悲しみを癒すことができるのです」

 

 


降り止まぬ雨、それにも関わらず何度も巻き起こる熱狂的なアンコールの拍手に、再三再四ステージに戻された彼女は、少女のようなはにかみで応えた。
「なんだか、スターにでもなった気分だわ」

 

 


星の瞬きのようなピアノのイントロに導かれて歌い出した祈りの歌。それはクライマックスにむけて力強さを増し、人々を未来に導く神々しい光のようだった。

 

 


 我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく
 我らの罪をもゆるしたまえ


 我らをこころみにあわせず
 悪より救い出したまえ


 AMEN

 

 

 

 

マキシンとニックは手をつなぎ、会場の一番後ろでその光景を見ていた。

まるで乗り遅れた船の出航を見送るように、二人はそれが見えなくなるまで、ずっとそこで立ちすくんでいた。

 

 

 


会場からホテルに戻ったマキシンとニックは、濡れた服を脱ぎ、バスタオルをかぶって、ベッドの縁に並んで腰掛けていた。
マキシンが口を開いた。
「彼女の歌、すばらしかったわね」
「ああ」
「私たちも、ゆるされると思う?」
「…それは」

 

 


二人の目が同じものを見ていた。

ベッドの脇に置かれている、ずっしりと重い革のトランク。人ひとりがはいるほどの大型サイズ。

ヒザを抱えた恰好で冷たくなっている、見えないはずの中身が、二人にはまるで見えているかのようだった。
マキシンが笑った。
「サッチモ、見られなかったわね」

ニックの腕が、マキシンの冷たい肩を抱き寄せた。

 

 

 

 

 

(4)


朝が来た。
ホテルの駐車場で、制服を着た二人の男が黄色いキャデラックを覗き込んでいた。彼らはうなずくと、フロントに廻って支配人を呼んだ。
部屋のドアがノックされた。中からの応えはなかった。

支配人が合鍵を使ってドアを開けた。

 

 


セミが鳴いていた。

朝とはいえ、窓から差し込む光はもう、強い夏の日差しだったのだ。

 

 

 

 

 

 

Thanks For Inspiration, MAHALIA JACKSON
『NEW PORT 1958』(1986)
映画「JAZZ ON A SUMMER'S DAY  (邦題 真夏の夜のジャズ)」(1960)

 

 

| ショート・ストーリーズ | 01:10 | - | - | pookmark |
口唇の荒れた女 -Her Chapped lips-

 

 


仕事帰りの乗客のため息で満たされた夜のバスは、水槽の中にも似た青い光が沈んでいた。

窓ガラスの向こうの暗闇に、まばらな電球で囲まれたガソリンスタンドの看板が小さく揺れていた。

 

 


私のとなりに座る女からは濃密な夜の匂いがした。

光沢のある黒い肌、長い黒髪。大きな目をさらに誇張する原色のシャドー、張ったほお骨に、ラメのはいったオレンジ色のチーク。ノースリーブのピンクのシャツの胸元がVの字に開き、胸の谷間があられもなく見えている。

 

 


「よくある話なんだけどね」

窓に映った女の横顔が、私が訊ねもしないことを話し出した。

 

 


「私がまだ小さい頃、ママが新しいパパと結婚したの。それまでずっとママとふたり暮らしだったから、最初はやっぱり、とまどったんだけど。でも、パパはすごく優しい人で、私はすぐにパパが大好きになった。毎朝、私がふたりにコーヒーをいれてあげて、日曜日には3人でよく釣りに行ったわ」

 

 


バスが停車し、前の席の若い男女が降りた。

乗り込んでくる客の姿はいない。

 

 


「私が12歳になったばかりの、ある午後のことよ。その日はイースターでもないのに、パパが家のあちこちに卵を隠したの。殻にとてもすてきな装飾がしてあってね、私、そういう飾りものも宝探しも大好きだったから、玄関、リビング、階段、クローゼット、見つけるたびに飛び上がって喜んだわ。でも、最後にパパとママのベッドルームでまくらの下にあった卵を見つけたとき、いつのまにかそこにいたパパの手が、私の手を包んだの。とても大きな手だった。私は驚いたけれど、いやじゃなかった。それが私たちの最初だった」

 

 


通路を挟んだ席の痩せた老人が、目をつぶったまま小さく十字を切った。
窓の外では、カーブにそって並んだモーテルの看板がゆっくりと近づき、そして過ぎ去っていく。

 

 


「それから私は、ママが出かけるのが待ち遠しくなった。二人きりでパパに愛してもらえたから。でも、ママは気がついていたの。ある日の朝、グラスに注いだミルクを床に落としたあと、私にこう言ったわ。

『いったい、自分が何をしているのか、わかってるの? あなたたちは男同士じゃないの』

 

 


「その頃にはもう、それがどういうことなのか、自分でもわかっていたわ。

ええ、わかっていたけど、だからって、どうしろっていうの?」

 

 

 

「結局、ママはパパと別れて、私たち二人は遠くに引っ越したわ。

それからママは私を育てるために、昼も夜も働いた。毎日毎日、同じ服を着て早朝から出かけ、日付が変わるくらいの時間に、しわだらけの疲れた顔で戻ってくるの。肌は乾ききって、いつも口唇がひび割れてたわ。お金がなくて、まともな食事がとれなかったの。私が家を出るまで、ずっとそうだった」

 

 

 

バス停が近づき、スピードが落ちる。

 

 

 

「…でもね、…でも、私は」

 

 

 

私はトランクを抱えて席を立った。

窓に映った彼女は、両手で顔を覆っていた。

 

 


「……ママ…」

 

 

 

 


家に着くと私は、廊下の灯りをつけ、帽子を脱いで壁にかけた。

洗面所に行き、顔を洗って、口をゆすいだ。

階段を上り、自分の部屋に行く前に、寝室をのぞいてみる。

 

 


母は眠っていた。抜けた白髪だらけのまくらに青い顔の半分を沈め、喉に何かがひっかかったような不規則な呼吸をしている。部屋に染み込んだ、汗と病いと埃のにおい。

私は中に入り、ベッドの脇の椅子に座った。額に手をあてると、その湿った熱が伝わってくる。

眠っているときでさえ、母は苦痛に顔を歪めていた。

彼女の、口唇のしわにそって固まった細い血の線を、指でなぞった。

 

 


私は自室に戻ってドアを閉めた。

トランクを開け、中から油紙の包みを取り出す。

持ったことのない重みで手に汗がにじんだ。

 

 

 

長年の病いに母は疲れきっていた。

私もそうだった。私たちはこの苦しみから解放されたかった。

そのためにわずかな蓄えをすべて注ぎ込んで、この道具を手にいれた。

 

 


ただ、その日は今日ではなかった。

明日はどうだかわからないが、今日は、その日ではなかったのだ。

 

 


包みを机の引き出しの奥にしまい、鍵をかけた。
カーテンの向こうから、風がガラスを叩く音が聞こえた。
私は机にノートを広げてペンを握り、何を書くわけでもなく、次第に強まっていくその音に、ずっと耳を傾けていた。

 

 

 

 

 

Thanks For Inspiration :  BRIAN BLADE & THE FELLOWSHIP BAND『Season Of Change』(2008)

 

 

 

 

 

| ショート・ストーリーズ | 02:23 | - | - | pookmark |
黄昏は朱く燃えて -Sunset Glow-

 

 

 

私の父、ハワードのことを振り返って真っ先に思い出すのは、

バンパーの曲がった車から漂う油の匂いと、彼のさみしそうな笑顔のことだ。

 

 


父は結婚する前からずっと土木現場で働いていたのだが、私が小学校の高学年になったあたりで体調を崩し、仕事を休みがちになっていた。月に何度かは病院へ通い、朝、元気に出勤したかと思えば、青い顔をして昼過ぎに帰ってきたりした。夕飯前に仕事から戻った母が、ポーチに脱ぎ散らかされた泥だらけの作業ブーツを見て、玄関先から大声で父の名を呼んだものだ。

 

 


あるときから父は、当時私が参加していた野球チームの練習を見にくるようになった。

彼の主治医が、気分転換に趣味の時間を設けることを勧めたからだ。

父はハイスクール時代、州の大会で優勝するようなチームの一員だったらしく、やるのも観るのも、なにしろ野球が大好きだったので、私たち兄弟にバットとグローブを与えたのは当然のなりゆきだった。

 

 


午後3時頃、車から降りた父は、いつも一塁側のフェンスの向こうから手をあげる。

ティアドロップのサングラスをかけ、日に灼けた額と美しいウェイブのかかった鈍いブロンド。洗ったばかりのシャンブレーシャツの袖をまくり、デニムを好まない父は、それにカーキの作業用ズボンを合わせた。

葉の青々としたナラの木の下、太い幹に背中をあずけ、腕を組む。野球と肉体労働で鍛えられた父の体躯は息子の私から見ても見事なもので、まるで映画スターのようだとうわさするチームの仲間たちに、私は内心、鼻を高くした。

彼はコーチのダフィに声をかけ、ひとこと、ふたこと、その突き出たお腹をからかいながら、胸ポケットから抜き出したラッキーストライクを一本くわえ、マッチを擦って火を点ける。

夏の強い日差しと木々の影。ときおり舞う砂埃と草の匂い。

 

 


影の伸びるグラウンドからの帰り道。まだ舗装されていなかった道路と激しいエンジンの振動に私たちは揺られた。

父の車はディーゼルエンジンで、燃料の軽油は会社からいくらでも支給されるのだと言っていた。

私と弟は全開にした窓から、炭のように燃える真っ赤な空と、そこに広がる紫色の雲を眺めた。

お腹も空いたし、母が待っているのはわかっているのだが、なんだかいつも、もう少し乗っていたい気分にさせられた。そんな私の心を察してか、父はよく家へむかう方向とは反対の道へハンドルを切った。

 

 

 

永遠に続くかのようなトウモロコシの深い谷の中を、私たちはお気に入りのテレビドラマの主題歌を歌いながら走り続けた。そこを突き抜けると、前方に広大な土地が姿を現す。

立ち入り禁止の看板の先には、視界いっぱいの岩肌と、恐竜にも似た重機たちの影。

車を降りて、それらを見渡しながら父は言った。
「お前たちが大きくなる頃には、ここはでっかい街になっているはずだ。学校、病院、スーパーマーケットに映画館。緑あふれる公園にバスケットコート。スケートリンクや、野球のスタジアムだってできるだろう。子供たちの未来をつくる新しい街。それに関われるのが父さんたちの誇りなんだ」

 

 


ある日、ショーンの小型ラジオが盗まれてしまった。

ショーンはチームの補欠で、コーチのダフィの息子だった。次の試合で私はスタメンから外された。代わりにセカンドのポジションについたのはショーンだった。理由を問いただそうと喰ってかかる私に、ダフィは目も合わせないまま「自分の胸に訊いてみろ」と言った。前々から同じラジオが欲しいと触れ回っていた私は、彼ら親子に疑われていたのだ。

 

 

 

他のチームメイトからそのことを聞いた父は、私を連れてダフィの店に怒鳴り込み、通路を後ずさる彼のエプロンをつかみ上げた。
「いいか、よく聴け。チームのオーダーはあんたの決めることだから文句はない。うちの子が実力不足なら、補欠にでもなんでもすればいい。だがな、この子の努力を踏みにじるようなまねや、人としての誇りを傷つけることは、絶対に許さない。忘れるなよ、俺は絶対に許さないからな」
普段おだやかな父のあまりの激昂ぶりに、ダフィは床にへたり込んだまま立ち上がれなかった。

息を荒くした父は、ポケットから革の財布を取り出し、折った紙幣とありったけのコインをダフィの突き出た腹にむかって投げつけた。
「勘違いするんじゃないぞ。これは今あんたの尻がつぶしている、ミンチ肉の代金だ」

 

 


帰りの車の中で私と父はずっと無言だったが、家に着く前の最後の交差点で、私は父に言った。
「僕、チームをやめるよ」
信号が青になった。

父は一瞬、私を見、それからアクセルを踏んだ。「そうか、じゃあ、別のチームを探さないとな」
「いや、ぼく、もう野球はやらないよ」
車が右折する間、ウインカーの音だけが聞こえた。
「そうか、わかった。お前がそうしたいなら、それでいい」
ハンドルを戻しながら、父は笑った。とてもさみしそうな笑顔だった。
「それから、父さん、あの、ラジオのことなんだけど…」言いかけた私の言葉を、父は厚い手の甲でさえぎった。
「もういい。俺はお前を信じてる。たとえ、お前が何をしたとしても、必ず父さんが守ってやる。それだけは忘れないでくれ」
そう言って父は、私の頭に手をのせた。硬く、重い手だった。私は下をむいてシャツの裾を噛み、あふれそうになる涙を必死でこらえた。
ラジオはその晩、庭のブナの木の根もとに埋めた。

弟も一緒にチームをやめたので、夕方のドライブはそれきりになってしまった。

 

 


父が死んだのは私がハイスクールのときだった。

冷たい雨の中、夜通しで仕事をして帰ってきて、眠っている間に心臓が止まってしまったのだ。

 

 

 

葬儀の日は輝くような晴天だった。父のために多くの人たちが来てくれた。年老いた人も若い人も、目を真っ赤にして泣いていた。父がどれだけ愛されていたのかが、よくわかった。だが、私はといえば、そのとき思春期のまっただ中だったこともあって、父とささいなことで喧嘩をし、亡くなる数日間から、まったく口をきいていないままの別れだった。

あんなに寛大だった父の、私が最後に聞いた言葉はこうだ。
「お前にはもう、このドライヤーは使わせないからな!」

 

 


けたたましいクラクションが鳴った。後ろに並んだ大型トラックからだった。

久しぶりに通ったこの道で、思い出の海の中を漂っていた私は、目の前の信号が変わっていることに気がつかなかったのだ。私はあわててサイドブレーキを戻し、鳴り続けるクラクションに煽られるように、つま先でアクセルを押し込んだ。交差点を越えて停車し、猛然と加速するトラックをやり過ごした。再び車を出す前に、ダッシュボードからケントを取り出してライターで火を点け、運転席の窓を少し開けた。

 

 


無数のテールランプの列。フロントガラスの中で移りゆく空と雲は、あの頃に見た美しい色合いを思い出させたが、ハンドルを切ったその先は、もうトウモロコシ畑ではなくなっている。

夕方の住宅地を照らすオレンジ色の光と、沈殿するいくつもの人生の影。

規則的に並んだ街灯ごしに見える高台は、分譲がうまくいかず、その多くが更地のまま残っている。

 

 


係員の誘導に従って敷地内に入り、空いている駐車場に車を停めた。

バックシートにあった上着をつかんで車から降り、建物の正面へ回って階段を昇る。

硬質ガラスの回転扉を抜けた瞬間に、誰かの怒号が聞こえる。

青い蛍光灯で照らされた廊下の奥へ、人が慌ただしく走っていくのが見える。

 

 


私は立ち止まって胸に手をあて、大きく息を吸い、吐き、そしてカウンターの中にむかって声をかけた。
「エクスキューズ・ミー」
私の声で、手元の書類を見ていた若い男が顔をあげる。
「どうされましたか?」。職業柄か、とても鋭い目をしている。
「ジェンキンス警部を呼んでいただけますか。さっき彼から電話をもらったんです。すぐここに来るようにと」
男はうなずきながら黒い受話器を耳にはさみ、「お名前を」と言った。
「ハミルトンです。いま、ここに拘束されているラリー・ハミルトンの……父です」

 

 


ねえ、父さん。僕が奪ったのがラジオじゃなく、それが人の命だったなら、

父さんは僕を許してくれたかい?

お前を必ず守ると言ってくれたかい?

 

 


目の前で、ジェンキンス警部がラリーにかけられた容疑について話している。

他の刑事から、何枚かの写真を見せられる。

あまりのことに、私はテーブルのコップを倒してしまう。

 

 

 

「ミスター・ハミルトン、大丈夫ですか? ミスター・ハミルトン、少し休みますか?」

 

 

 

 

 

Thanks For Inspiration : STEPHEN BRUTON『From The Five』(2005)

 

 

 

 

| ショート・ストーリーズ | 22:48 | - | - | pookmark |
色彩

 

 

 

きれいな緑色が見たくて、ブロッコリーを茹でる。

 

 

 

 

 

 

| ショート・ストーリーズ | 15:30 | - | - | pookmark |
旅人たち

 

 

 

郵便受けをのぞくと、今日もアニーからの手紙が届いていた。

夫あての手紙と一緒に家に持ち帰り、封を開けて、三つに折られた便せんを開いた。

中にはうすい紫の小さな押し花がはさんであった。

彼女はまた私の知らない街を訪れているらしい。

 

 

 

学生時代からの親友、アニーからの手紙を、私はこの数年間ずっと楽しみにしていた。

生まれ育ったこの街から出たことのない私は、主婦としての変わらない毎日を過ごしながら、度々届くアニーの手紙を読むことで、彼女と一緒の旅を夢想していた。

 

 

 

 

 丘一面に咲き誇っている菜の花。

 

 

 霧のような雨が降りそそぐ古都の城。

 

 

 羊をつれて歩く子供たち。

 

 

 どこよりも月が近くに見える峠。

 

 

 裏路地で見つけたお店のスパイシーなスープ。

 

 

 草原を横断する長い貨物列車。

 

 

 雪に隠された切ない恋。

 

 

 大聖堂の天井までを埋め尽くす、色とりどりのステンドグラス。

 

 

 

 

まだ見ぬ街への期待に胸を踊らせ、興奮気味のアニーのとなりを、私は微笑みながら共に歩く。

見上げた空は、果てなく広がっていく。

 

 

 

 

 

 

玄関先から夫と子供たちが帰ってくる声がして、私は旅のドアそっと閉めた。

 

 

 

子供たちの泥のついた服を脱がして洗濯かごに入れ、

はしゃぎ声の上からあたたかなシャワーをかける。

夫が子供たちの体を拭いてくれている間に、着替えの清潔なシャツと靴下を棚に置き、シチューの鍋に火をいれる。

 

 

 

家族そろってテーブルを囲んでの夕食。

子供たちは捕まえ損なったリスの話を聞かせてくれ、

私はその間もスプーンにニンジンを乗せて、彼らの口に運ぶ。

夫は日に一杯だけのビールを、心ゆくまで楽しんでいる。

 

 

 

子供たちが寝静まったあと、夫と、日々の生活で気になっていることや、うまくいかないことを語り合う。

たまに声を荒げたりもするが、ふたりは必ず笑顔でおやすみを言う。

次の日の朝、また笑顔でおはようを言うために。

 

 

 

 

 

 

迎えのバスが来て子供たちは学校へ行き、夫も仕事に出かけた。

私は朝食の後片付けを済ませ、洗いあがった洗濯ものを抱えて庭に出た。

 

 

 

裏返ったシャツの袖を引っ張り出しながら、ふと家の外を眺めると、

我が家の郵便受けの前にふたりの母子が立っていた。

長い髪を後ろで結んだ母親が、小さな娘の手を握っている。

 

 

 

アニーだった。

彼女はまた手紙を届けてくれたようだ。

そしてそれには、昨日の旅の続きが書かれている。

 

 

 

私はアニーに手を振った。

彼女も私に手を振った。

娘に腕を引っ張られたアニーは笑いながら、そのまま家の前を通り過ぎて行った。

シングルマザーの彼女は、これから娘をあずけて仕事へ行くところだ。

 

 

 

私たちは母としての人生を歩みながら、同時に旅の空の下を歩いている。

それはなんと贅沢なことだろう。

 

 

 

でもね、アニー。子供たちの手が離れたら、いつか本当の旅行に行きましょうね。

それまで私たち、がんばらなくちゃ。

 

 

 

私は真っ白になったシャツを、パン、と伸ばし、

彼女と私が歩く青い空にかざした。

 

 

 

 

 

| ショート・ストーリーズ | 04:17 | - | - | pookmark |
浴槽

 

 

 

昨日、本を読んだの。

女は、くわえ煙草でそう言った。

 

 

 

 

本の中で男が言うの。

この世のすべては実体のないもの、

イリュージョンなんだって。

 

 

 

 

パイプ仕立てのベッドの上、

壁を背にしてヒザを抱えている彼女の足元には、

白い陶器の灰皿があり、それは底が見えないほどの吸い殻で満たされている。

 

 

 

 

女は、火を点けて間もない長い煙草を揉み消し、

すぐにまた新しい煙草に火を点ける。

 

 

 

 

傍らのストーブには、かけられてすぐの薬缶がある。

フタの下の水面は穏やかで、まだ、わずかほどの泡立ちもない。

 

 

 

 

彼女は宙を見つめたまま、無表情で話し続ける。

 

 

 

 

貴方というイメージは、貴方が望んだ形で現れ、

私と言うイメージは、私の望んだ形で現れる。

 

 

 

 

今まで起こったことのすべては、良い結果であれ、悪い結果であれ、

貴方や私自身の、そのイメージによって生み出されたものなんだって。

 

 

 

 

だとしたら、私たちって相当、

ネガティブだわ。

 

 

 

 

女は笑う。

 

 

 

 

 

薬缶の口からかすかな煙が立ち昇る。フタの内側は徐々に水滴がつき始める。

 

 

 

 

こうやって話しているこの会話も本当は、

どこかの誰かのイメージの中なのかも知れないわね。

 

 

 

 

いっそ、そうだといいのだけど。

 

 

 

 

 

女は黙る。煙草を消す。そして、また火を点ける。

 

 

 

 

 

漂う紫煙。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

女が何かに気づく。

 

 

 

 

時計を見ると、針が5を指している。

 

 

 

 

貴方、もう時間— 

 

 

 

 

女は振り向く。

しかし、そこに、語りかけていたはずの体温はない。

さっき彼女自身が締めたドアだけが、そこにある。

 

 

 

 

女はうつむく。

 

 

 

 

薬缶がごぼごぼと激しい音を立てている。

フタを押し上げ、隙間から噴きこぼれた蒸気が、一瞬にして天に還っていく。

 

 

 

 

煙草を消す。

 

 

 

 

ベッドから立つ。こぼれる灰。汚れるシーツ。

 

 

 

 

ストーブから薬缶を降ろす。音が止む。

 

 

 

 

窓に近づく。

水滴で張り付いたカーテンを開ける。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

外は、湖。

輪郭も色彩もあいまいな風景。

 

 

 

 

彼女の視線の先、遥か向こうの穏やかな水面に、

何かが引っかかったように浮き沈みしている。

不自然で、小さな黒い影。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

閉じられたカーテン。

ベッドでヒザを抱える女。

 

 

 

 

壁の向こうから、

かすかに、浴槽に水が張られる音が聞こえる。

 

 

 

 

女はライターを探し、煙草をくわえ、火を点けようとして、

 

 

 

 

 

やめた。

 

 

 

 

 

 

 

| ショート・ストーリーズ | 03:44 | - | - | pookmark |
ジズス(7)

 

 

生い茂る若葉は、差し込む日の光を透かして輝いていた。

その枝と枝の間に張られた小さなクモの巣に、丸い水滴が転がっている。

美しい夏の午後。

 

 

 

幼い私たちは、自分の身の丈ほどの生い茂った草木をかき分けて歩いている。

私は彼女の手をとって歩く。息が荒い。

赤いリボンを結んだ麦わら帽子と、白い麻のワンピース。

ハンカチで汗を拭いてやり、大丈夫かいと問う。

彼女は声も無く、ただ頷く。

 

 

 

短い夏を楽しむために、ヘレナと計画していた森へのピクニック。

反対していた大人を説得してくれたのは、引率をかってでた兄だった。

今なら親たちの心配がわかった。この遠い道のり、ふたりだけだったらどうなっていただろう。

 

 

 

先に進んでいた兄が立ち止まっていて、手招きをするのが見えた。

やっとのことで追いつき、ふたりで兄の腕の下をくぐる。

 

 

 

そこに湖があった。空の色を映し、見事なまでに青い水面が、風を受けてきらめいていた。

驚きの声をあげた、ヘレナの表情もまた。

 

 

 

ヘレナの父親が持たせてくれた干葡萄パン。兄がナイフで切り分けたハム。

瓶詰めのピクルスと、みんなで摘んだクロスグリの実。

湖畔でとった昼食はそれまでの人生で、いや、私の人生において最高の食事だった。

 

 

 

釣り針を用意している兄の傍らで、お腹いっぱいの私たちは横になる。

木陰に吹く風が心地いい。

ヘレナの寝息。

魚がはねる音。

このままここで暮らしたいな、と、まぶたを閉じながら私は思う。

 

 

 

 

 

 

 

彼女はステージの上にいた。

 

 

 

派手な化粧を施され、髪を巻いている。

 

 

 

丈の短い天鵞絨のローブ。

素足に、かかとの高い靴。

 

 

 

照明があたる。

 

 

 

そばにいた男がローブをはぎ取る。

 

 

 

何もまとっていない肌が、大勢の男たちに晒される。

 

 

 

髪を掴まれ、彼女は顔をあげさせられる。

 

 

 

下卑た口笛が飛ぶ。

 

 

 

腕をとられ、その場で後ろをむかされる。

 

 

 

待ち望む視線。

 

 

 

開かれる脚。

 

 

 

 

 

 

耐えられない。とても耐えられなかった。

 

 

 

大柄な男たちに取り押さえられ、這いつくばった床に歯を立てながら、

私は落札を告げるハンマーの音を聴いた。

 

 

 

 

 

ジズス 目次

 

 


 

| ショート・ストーリーズ | 19:42 | - | - | pookmark |
ジズス 目次

 

 

ジズス(1)



ジズス(2)



ジズス(3)



ジズス(4)

 


ジズス(5)

 


ジズス(6)

 

 

ジズス(7)

 

 

 

| ショート・ストーリーズ | 13:01 | - | - | pookmark |
ジズス(6)

 


いつものように、ヴィゴの部屋から女の声が聞こえていた。




ヴィゴの元に集められた女たちは、まず、彼の査定を受ける。
常連向けのお披露目会に向けて、連日、彼の部屋には女たちが届けられていた。
仕事で訊ねたいことがあったが、自室に戻って扉を閉めた。




夜中に、車が出て行く音で目が覚めた。ヴィゴは出かけていったようだった。
水を飲もうと起き上がると、ヴィゴの部屋のドアが開いているらしく、廊下に女のすすり泣きが漏れ出ていた。
私は戸惑い、しばらく部屋でじっとしていたが、押し殺したような泣き声を聞いているうちに、胸が苦しくなってきた。
立ち入るべきではないと思いつつも、廊下に出て、そっと兄の部屋をのぞいた。




暗いランプに照らされた裸体。ベッドに沈んだ女の背中。
乱れた髪と、細い体に貼り付いた陰影が、嗚咽に合わせて上下している。
ベッドの四隅から伸びたロープ。彼女はうつぶせの格好で、両手両足を縛り付けられていた。




私は息を飲んだ。
縛られた手首の先に、象牙色の手袋。




水色のミトン。
雪の日の倉庫。
君の手のひら、君の笑顔。




私は部屋を出た。何かが飛び出してしまいそうで、口を押さえた。
自室に戻ってドアを閉め、頭から毛布をかぶった。
全身が震えた。吹き出る汗が止まらなかった。
怒りとも恐怖ともつかない、混沌とした感情の濁流に飲み込まれ、私はそのまま気を失ってしまった。


 

ジズス(7)



 

 

| ショート・ストーリーズ | 21:49 | - | - | pookmark |
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