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口唇の荒れた女 -Her Chapped lips-

 

 


仕事帰りの乗客のため息で満たされた夜のバスは、水槽の中にも似た青い光が沈んでいた。

窓ガラスの向こうの暗闇に、まばらな電球で囲まれたガソリンスタンドの看板が小さく揺れていた。

 

 


私のとなりに座る女からは濃密な夜の匂いがした。

光沢のある黒い肌、長い黒髪。大きな目をさらに誇張する原色のシャドー、張ったほお骨に、ラメのはいったオレンジ色のチーク。ノースリーブのピンクのシャツの胸元がVの字に開き、胸の谷間があられもなく見えている。

 

 


「よくある話なんだけどね」

窓に映った女の横顔が、私が訊ねもしないことを話し出した。

 

 


「私がまだ小さい頃、ママが新しいパパと結婚したの。それまでずっとママとふたり暮らしだったから、最初はやっぱり、とまどったんだけど。でも、パパはすごく優しい人で、私はすぐにパパが大好きになった。毎朝、私がふたりにコーヒーをいれてあげて、日曜日には3人でよく釣りに行ったわ」

 

 


バスが停車し、前の席の若い男女が降りた。

乗り込んでくる客の姿はいない。

 

 


「私が12歳になったばかりの、ある午後のことよ。その日はイースターでもないのに、パパが家のあちこちに卵を隠したの。殻にとてもすてきな装飾がしてあってね、私、そういう飾りものも宝探しも大好きだったから、玄関、リビング、階段、クローゼット、見つけるたびに飛び上がって喜んだわ。でも、最後にパパとママのベッドルームでまくらの下にあった卵を見つけたとき、いつのまにかそこにいたパパの手が、私の手を包んだの。とても大きな手だった。私は驚いたけれど、いやじゃなかった。それが私たちの最初だった」

 

 


通路を挟んだ席の痩せた老人が、目をつぶったまま小さく十字を切った。
窓の外では、カーブにそって並んだモーテルの看板がゆっくりと近づき、そして過ぎ去っていく。

 

 


「それから私は、ママが出かけるのが待ち遠しくなった。二人きりでパパに愛してもらえたから。でも、ママは気がついていたの。ある日の朝、グラスに注いだミルクを床に落としたあと、私にこう言ったわ。

『いったい、自分が何をしているのか、わかってるの? あなたたちは男同士じゃないの』

 

 


「その頃にはもう、それがどういうことなのか、自分でもわかっていたわ。

ええ、わかっていたけど、だからって、どうしろっていうの?」

 

 

 

「結局、ママはパパと別れて、私たち二人は遠くに引っ越したわ。

それからママは私を育てるために、昼も夜も働いた。毎日毎日、同じ服を着て早朝から出かけ、日付が変わるくらいの時間に、しわだらけの疲れた顔で戻ってくるの。肌は乾ききって、いつも口唇がひび割れてたわ。お金がなくて、まともな食事がとれなかったの。私が家を出るまで、ずっとそうだった」

 

 

 

バス停が近づき、スピードが落ちる。

 

 

 

「…でもね、…でも、私は」

 

 

 

私はトランクを抱えて席を立った。

窓に映った彼女は、両手で顔を覆っていた。

 

 


「……ママ…」

 

 

 

 


家に着くと私は、廊下の灯りをつけ、帽子を脱いで壁にかけた。

洗面所に行き、顔を洗って、口をゆすいだ。

階段を上り、自分の部屋に行く前に、寝室をのぞいてみる。

 

 


母は眠っていた。抜けた白髪だらけのまくらに青い顔の半分を沈め、喉に何かがひっかかったような不規則な呼吸をしている。部屋に染み込んだ、汗と病いと埃のにおい。

私は中に入り、ベッドの脇の椅子に座った。額に手をあてると、その湿った熱が伝わってくる。

眠っているときでさえ、母は苦痛に顔を歪めていた。

彼女の、口唇のしわにそって固まった細い血の線を、指でなぞった。

 

 


私は自室に戻ってドアを閉めた。

トランクを開け、中から油紙の包みを取り出す。

持ったことのない重みで手に汗がにじんだ。

 

 

 

長年の病いに母は疲れきっていた。

私もそうだった。私たちはこの苦しみから解放されたかった。

そのためにわずかな蓄えをすべて注ぎ込んで、この道具を手にいれた。

 

 


ただ、その日は今日ではなかった。

明日はどうだかわからないが、今日は、その日ではなかったのだ。

 

 


包みを机の引き出しの奥にしまい、鍵をかけた。
カーテンの向こうから、風がガラスを叩く音が聞こえた。
私は机にノートを広げてペンを握り、何を書くわけでもなく、次第に強まっていくその音に、ずっと耳を傾けていた。

 

 

 

 

 

Thanks For Inspiration :  BRIAN BLADE & THE FELLOWSHIP BAND『Season Of Change』(2008)

 

 

 

 

 

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